過剰供給の罠で結んだ密約が、独禁法で裁かれ信用を失う日まで

夜の会議室。机の上に並ぶのは、飼料用添加物「リジン」の市況表。発酵タンクは止められず、供給が積み上がるほど価格は滑り落ちた。誰かが言う――このままでは、技術の誇りが赤字に変わる。だから、競合と“揃える”という誘惑が甘く響く。会合は国境を越えて重ねられ、値段と数量が静かに調整された。けれど密約は、紙ではなく人の記憶に残り、いつか誰かの証言になる。米国の当局が動き、企業は有罪答弁と罰金へと追い込まれた。[1] 短期の安心を買うほど、企業は長期の信用を質に入れる。その代償を、世界の法が数字で突きつける。結末は、勝利ではなく「清算」だった。だれも笑えない。
この物語の主役となる企業はどこか
これは、味の素株式会社の物語。うま味調味料「味の素」や「ほんだし」など、食卓に近いブランドで知られる一方、発酵とアミノ酸の技術を核に、飼料・食品・医薬向けの素材も世界でつくってきた。工場のタンクが生む粉は目立たないが、家畜の成長や加工食品の品質を左右し、産業の裏側で静かに効く。海外に拠点が増えるほど、相手は顧客だけではない。行政、競争当局、裁判所――見えない観客が増えていく。強い技術ほど、国境を越えるとルールの重さも増す。この物語は、その重さを見誤った瞬間から始まる。食と健康の課題に向き合う企業であるからこそ、社会の信頼が最大の資本になる。それが一度、崩れた。
- 意思決定の評価軸を先に固定し、誘惑に名前を付けること。数字の正しさより、手段の正しさが最後に問われる
- 価格下落や過剰供給の局面では、競合との会合や情報共有が「当たり前」になりやすいが、記録・同席者・議題の設計が甘いと、それ自体が証拠として残ること
- 違反が露見した後は、協力の度合い・社内の説明・再発防止の仕組みづくりが、罰の軽重だけでなく、取引の継続や人材の士気にも影響すること
どんな問題に直面していたのか
リジンは、飼料の栄養を補うために大量に使われる添加物で、価格が数%動くだけでも買い手の負担が大きい。1990年代、発酵技術を持つ各社が増産を競い、市場は供給過多に傾いた。工場は止めにくい。止めれば固定費が残り、止めなければ値下がりで利益が薄まる。現場には「設備稼働を守れ」という声と、「採算を守れ」という声が同居し、矛盾が日々の会議で増幅した。そこで彼らは、競合と会い、値段と数量を合わせれば“安定”できると考える。だがその安定は、競争を止める行為そのものだった。米国では、価格協定の嫌疑で味の素株式会社を含む各社が制裁対象となり、罰金や損害賠償が現実味を帯びた。[1] 事業の痛みを和らげる近道は、法と信頼の地雷原の上に引かれていた。刑事罰に加え、買い手側の損害賠償請求も視野に入り、問題は「一度の判断」ではなく「連鎖するコスト」へ変わっていった。欧州でも競争当局が目を光らせ、違反を早く申告した企業が制裁金の減額を受ける仕組みが整いつつあった。味の素株式会社は欧州委員会で第1申請者として情報提供したとされる一方、役割認定などで減額が限定的になったとの分析もある。[6]
どうやって解決しようとしたのか
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